斉彬の藩主就任と民政のモットー
嘉永4年(1851)2月2日、島津斉彬は正式に薩摩藩主・薩摩守を拝命し、それから約7年半、薩摩藩を統括した。3月9日、江戸を出発して、5月8日に藩主として鹿児島城に入城した。これは、世子時代の天保6年(1835)と弘化3年(1846)に続く3度目の帰国であったが、藩主として初入部であった。
斉彬の在国は、翌嘉永5年(1852)8月までの約1年4ケ月であった。この間に、寺社参詣、砲術調棟・諸武芸の実演観覧、伊集院(日置市)・加世田(南さつま市)・坊津(同)・山川(指宿市)・指宿など西目(薩摩半島)の巡見など、多忙な日々を過ごした。
次の帰国は、嘉永6年(1853)6月から安改元年(1854)1月までの約7ケ月間であった。その時は、桜島・垂水(垂水市)・根占(南大隅町)・佐多(同)・志布志(志布志市)・都城(宮崎県都城市)・高岡(宮崎市)・小林(宮崎県小林市)・霧島(霧島市)・国分(同)など、東目(大隅・日向方面)の巡見に費やした。
さて、斉彬の座右の銘は「民富めば君富む」(領民(国民)が豊かになれば、藩主も豊かになる)であった。領民の豊かな生活とその安全を保障するのが、藩(国)の存在意義の基本であると考えたのだ。藩(国)を支えているのは、領民(国民)であるとの認識がうかがえよう。
斉彬の民政・経済政策
嘉永4年10月、斉彬は物価安定のため豊作時に米を買い入れて備蓄し、凶作時に米を安く藩士・領民へ放出するための「常平倉」を設置した。領民の生括安定のため、行政官・藩士と領民の間に、相互の信頼関係の構築を目指したのだ。
安政4年(1857)5月、藩士・領民へ貸していた金や米など、全ての貸付を破棄する政令を公布した。内訳は金3万7000両余、銀4300貫余、米2万2900石余、銭5万5900貫余、合計すると約17万両に達している。参勤交代の帰国途中、大坂で10万両を借入して、その一部に充当した。
斉彬は、経済政策の抜本的な見直しを行い、不足している米穀類などを他国に求め、藩の特産品(砂糖・煙草・硫黄など)の江戸・大坂での販売を促進した。また、他国へ販売する商品の開発を行い、殖産興業を積極的に推し進めたのだ。
さらに、林業拡大に注力し、火力の強い白炭の量産に成功した。嘉永6年には、白炭など各種林産品を他国に販売するため、大坂・江戸に展示所を設置した。加えて、安政3年(1856)5月、江戸築地小田原町に展示即売所を設置し、砂糖・煙草・硫黄などの特産品とともに、本格的に白炭の販売を開始した。
安政2年(1855)、斉彬は大船に必要な帆布確保のため綿花栽培を開始し、郡元柴立松(東郡元町)に、綿実(わたざね)の油を搾る水車場を建設した。翌3年に水車場の隣に水車機織所を設置し、水力による機械紡績を開始し、安政5年(1858)には田上御穂崎、永吉にも水車館を建設して、綿布の増産を企図したのだ。
また、陶磁器の釉薬融剤・杵灰(いすばい)の増産を炭の増産と連動させ、林産品の増産を実行した。安政4年には、陶磁器の産地である佐賀藩へ杵灰を売り、代わりに米を買う取引を始めるほどの規模に事業拡大したのだ。
なお、安政3年1月、側近名越彦太夫へ干鰯の開発を命令し、これを成功させている。このように、斉彬の民政・経済政策は多様にわたっており、薩摩藩の殖産興業・富国強兵に大きな功績を残したことを忘れてはならない。
斉彬の海軍力向上に向けた政策
嘉永4年(1851)2月、斉彬は藩主になると早速、蒸気船の建造に着手した。帰藩に先立ち、肥後七左衛門、梅田市蔵らに蒸気機関の雛型の制作を命じ、帰藩後は宇宿彦右衛門、市来四郎らへ同様に指示して、江戸・鹿児島の2か所で同時に蒸気船の建造を開始した。
嘉永4年1月、ジョン万次郎(天保12年(1841)、土佐沖を漂流中に米国捕鯨船に救助され、10年間米国に在住)らが米国船で琉球へ送還された報に接し、早速、長崎奉行に掛け合って、長崎移送前に鹿児島西田町会所に50日間差止することに成功したのだ。
斉彬は田原直助らに命じて、万次郎らが捕鯨のため乗船した米国船の構造等を聴取させた。そして、万次郎らの経験を基に、捕鯨船(越通船)の模型を作成したのだ。安改元年(1854)後半には、万次郎の協力で開発した越通船を数艘も竣工した。
翌安政2年(1855)7月、江戸で蒸気機関が完成すると、江戸に送った越通船に装着し、田町藩邸の近海での試運転に成功した。これこそ、日本で最初に造られた蒸気船「雲行丸」である。同年8月には、城内に精錬所を設立し、西洋船に必要な舷灯のための色ガラス・船の窓ガラス用の板ガラスの開発に着手したのだ。
ペリー来航を画期とした海防強化
嘉永6年6月17日、斉彬は江戸から鹿児島に向かう途中、八代でペリー来航(6月3日)を伝聞した。22日に鹿児島に帰着した斉彬は、老中阿部正弘と打ち合わせ済みである、米国使節来航時に水戸斉昭を海防参与にすることに関し、尾張藩主徳川慶勝や越前藩主松平慶永(春嶽)へ尽力を要請した。
反斉昭と言われた将軍家慶の急逝(6月22日)が追い風となり、7月3日に13代将軍家定から、斉昭は海防参与を拝命した。9月15日、斉彬と斉昭の念願であった大船(軍船)製造が解禁された。11月6日、斉彬(在鹿児島)は江戸藩邸に対し、大船・蒸気船合わせて15艘の建造を幕府へ申請することを命令し、12月20日に許可を得た。
翌安政元年1月13日、阿部老中から大船2、3隻を幕府が買い上げたいとの打診があり、また、幕府との大船事業を立ち上げ、桜島・垂水に造船所を建設し、本格的に大船の建造を開始したのだ。斉彬は幕府用に帆船の昇平丸・大元丸・鳳瑞丸を建造し、藩船の帆船・万年丸、承天丸、蒸気船の雲行丸を完成させた。
嘉永6年11月6日、大船建造の幕府への申請時、外国船と区別するため、予め用意した「日の丸」旗を日本国の総船印とする申請をした。幕府内には異論があったものの、斉昭の強力な推薦があったことから、翌安政元年7月9日、幕府は「日の丸」を日本国総船印に制定したのだ。ちなみに、明治政府は明治3年(1870年)1月27日、商船規則制定を制定し、「日の丸」は商船の国旗となり、これ以降、明文化されないまま日本の国旗となって現在に至っている。
ちなみに、嘉永3年4月、当時の藩主島津斉興は天保山・州崎の2砲台の築造を手始めに、串木野・知林島・垂水・内の浦に、翌4年1月に桜島の袴腰、三月出水・阿久根に台場(砲台)を建造した。斉彬もその事業を継承し、同6年3月に洲崎の砲台改築、今和泉に砲台着工、7月に祇園州砲台が完成した。さらに、下町新波戸に砲台を着工し、10月に江戸田町藩邸にも砲台を建造した。そして、安政元年8月には、下町新波戸砲台が完成するなど、斉彬は矢継ぎ早に海防施策を実行したのだ。
次回は、斉彬による集成館事業の実態や将軍継嗣問題と薩摩藩・斉彬との関わりについて、その真相に迫っていこう。
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