最初は「白地に青のライン」ではなかった!?
今年(2024年)8月に創立64周年をむかえる航空自衛隊のアクロバットチーム「ブルーインパルス」。白地に青のラインを塗ったT-4ジェット練習機による演技は、多くの人に親しまれています。
そのブルーインパルスが最初に使用した機種がF-86F「セイバー」です。同機は第2次世界大戦終結直後の1947(昭和22)年10月に初飛行した初期のジェット戦闘機で、1954(昭和29)年7月に発足した航空自衛隊も初期の装備機として長らく運用していました。
そういった経緯から、ブルーインパルスでも創成期の機体として装備しており、1964(昭和39)年の東京オリンピック開会式において、この機体を使って秋空にあざやかな五輪マークを描いたのはよく知られています。
このとき用いたF-86は、T-4によく似た白地に青いラインの入ったカラーリングでしたが、実はこの前に2年間だけ存在した「ブルーインパルス幻の塗装」があったのをご存じでしょうか。
ブルーインパルスはもともと1958(昭和33)年ごろ、パイロット有志の自主研究で始まっています。そのため、最初は使用する機体も白や青といった塗装は施されておらず、一般の飛行隊と同じ、金属の地肌そのままで飾り気のないものでした。
ところが、空自公式アクロチームとなった翌年の1961(昭和36)年、ある人物のひとことが部隊を動かします。
世界でも珍しい、リーダー機だけ違うデザイン
その人物とは当時の航空幕僚長である源田 実空将。かつて日本海軍の指揮官時代に「源田サーカス」と呼ばれたアクロチームを率い、ブルーインパルスの公式化も推進した人物です。
「アクロも一本立ちしたのだから、見る人に与える感じも考えなくては」
航空自衛隊トップの「鶴の一声」と言える、このひとことをきっかけに、ブルーインパルスの仕様機には特別な塗装が施されることになりました。しかも見た目が華やかになるだけでなく、目立つことで空中衝突の防止にもつながるという効果も含まれていたようです。
当時、ブルーインパルスが所属していたのは静岡県の浜松基地。この基地所在の隊員からデザインを募集し、集まった約80点の中から選ばれたカラーリングが、1961(昭和36)年10月の浜松基地記念式典で一般公開されました。
ただ、このときの塗装は、3年後の東京オリンピックの際に塗られていたカラーリングとは異なるもので、しかもリーダー(編隊長)機だけあえて違う色を用いるという、ある意味凝ったものでした。
金属の地肌の上にリーダー(編隊長)機だけは金色、ほかの編隊機は濃い青色の帯を胴体と翼に描き、そこに薄いピンクとライトブルーの帯を組み合わせ、翼下の燃料タンクには「Blue Impulse」と大きく文字を書き込んだ非常に派手なカラーリングだったのです。
ちなみに、リーダー機だけ色を変えるという試みは世界的に見ても珍しいものでした。とうぜん航空自衛隊にとっても初めてとなるため、担当した塗装分隊は大変苦労したといいます。
なにより、税金で購入した戦闘機、いうなれば国有財産に派手な塗装をするのは規則の面で非常にハードルが高かったはず。あくまでも筆者の推測ですが、のちに参議院議員にもなる源田 実氏の政治力があってこそ、実現したのかもしれません。
わずか2年で消えた初代塗装
このブルーインパルスの初代塗装は、当時の飛行機ファンから大いに喜ばれたそうです。しかし、わずか2年後の1963(昭和38)年10月には新しい塗装へ変更されます。この新塗装こそ、F-86Fが1981(昭和56)年に引退するまで親しまれた白地にブルーのラインを描き込んだカラーリングでした。
これは、映画の撮影協力を通じて交流を深めた映画会社の美術スタッフが、ブルーインパルス隊員の案をリファインしたものとのことで、この白と青を組み合わせたデザインは好評をもって迎えられました。
初代塗装がわずか2年で消えた理由は不明ですが、ピンクとライトブルーの退色が早いなど、色の管理が大変なことが影響したのかもしれません。
また、写真によってはピンクやライトブルーが白っぽく見えるため、のちに書籍やプラモで解釈違いを生む原因にもなりました。ちなみに、筆者(リタイ屋の梅:メカミリイラストレーター)はこの初代塗装が大好きで、プラモデルを何個も持っています。
こうして形作られた「ブルーインパルス=青いカラーリング」というイメージは、2代目のT-2や、3代目T-4にも引き継がれています。また、60年以上前に始まった関係者の努力が、いまのブルーインパルス人気にもつながっているのではないでしょうか。
次の機種が何になるかは、まだわかりません。しばらくの間はT-4練習機を使い続けるのでしょうが、これからも末永く親しまれる存在であってほしいと筆者は強く願います。